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総合案内 > 市政情報 > 三浦ファンが語る!「三浦自慢」 > 死の淵にいた北原白秋を救った三崎と三崎ゆかりの作品


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更新日:2014年5月29日

死の淵にいた北原白秋を救った三崎と三崎ゆかりの作品

詩人・北原白秋(1885年-1942年)は、大正2年1月、27歳の時、苦しい境遇に死を覚悟して三崎を訪れます。

 

一月の二日に私は海を越へて三崎へ行つた。死なうと思つたのである。恐ろしい心の嵐が凡(すべ)ての優しい哀情を無残にも吹き散らして了(しま)つた。(雑誌『朱欒(ザンボア)』3巻2号余録)

 

しかし、たどりついた三崎の何かに死を翻意させられます。

 

私は海を見た、ただ波ばかりがうねつてゐた、山には紅い椿が咲いてゐた、私はあきらめられなかつた、どんなに突きつめても死ねなかつた、

死ぬにはあまりに空が温く日光があまりに又眩しかつた。(雑誌『朱欒』3巻2号余録より)

 

白秋は同年5月に三崎に移住。約10カ月三崎で生活をする間、多くの作品を残しています。

 

「気候温和にして四時南風やはらかく而(しか)も海は恍惚として常によろめいてゐる、さながら南以太利の沿岸を思はせる景勝の土地である」(『雲母(きらら)集』余言)と白秋に評された三崎は、白秋を癒し、その作風にも大きな影響を残した重要な場所と言われています。

今回は、白秋の残した作品を通じて、三崎の魅力をたどっていきます。

北原白秋の写真

写真:北原白秋(昭和6年頃。『目で見る三浦市史』より)

 

白秋の目に映った三崎

油壺~南イタリアのような風景と美しい夕日~

前述のとおり、『雲母集』余言では、その気候等から南イタリアになぞらえられた三崎ですが、三崎のどの場所、どのような景色のことだったのでしょうか。

一つの答えを、諸磯の例祭を題材とした作品「畑の祭」に見ることができます。

 

山車が進んでゆくと、そこから神明宮と相対した油壺の入江が見え、向ふの丘の上に破れかかつた和蘭風の風車が見えてくる。その下に大学の臨海実験所の白い雅致のある洋館がある。芝生が見えキミガヨランが見え、短艇が二三艘浮いて見える。まるで南伊太利あたりの風景にでも接するやうである。

 

オランダ風の風車と臨海実験所の洋館(旧実験棟)は残念ながら現存していませんが、今も油壺は景勝地として訪れる人を魅了しています。

 

平成23年まであった臨海実験所旧実験棟の写真

写真:平成23年まであった臨海実験所旧実験棟。遠くには富士山も望める(提供:東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所)

 

また、『雲母集』の「油壺晩景」に添えられた、油壺から見る夕日の挿絵も白秋自身が描いたもので、白秋が愛した風景だったことがうかがえます。

油壺や諸磯は、今も夕日の美しい場所として写真愛好家等を惹きつける場所ですが、その美しさに白秋も感動したことでしょう。

 

油壺から諸磯見ればまんまろな赤い夕日がいま落つるとこ

油壺の風車と夕日を描いた挿絵と、「油壺晩景」の一作品の写真

写真:油壺の風車と夕日を描いた挿絵と、「油壺晩景」の一作品(『雲母集』より)

雲母集~「純然たる三崎歌集」

『雲母集』は、白秋自身が「純然たる三崎歌集」と呼ぶように、ほぼ全篇にわたり三崎での生活が歌われており、城ヶ島、八景原、油壺、諸磯、向ヶ崎、海外(かいと)、二町谷など、多くの場所が登場します。

ここでは、その『雲母集』に収録されている歌をいくつか紹介します。

『雲母集』を片手に三崎を散策してみてはいかがでしょうか。

 

城ヶ島の白百合の花大きければ仰ぎてぞあらむあそびの舟は(城ヶ島)

水垂れの松のかげゆくあはれなり麗らなる日のべら釣り小舟(城ヶ島)

八景原春の光は極みなし涙ながして寝ころびて居る(八景原)

寂しさに秋成が書(ふみ)讀みさして庭に出でたり白菊の花(見桃寺)

大きなる椿の樹ありあかあかとひとつも花を落さざりけり(大椿寺)

城ケ島の写真

 

野菜や魚の生命力、力強さも白秋は歌に残しています。三浦ならではの情景です。

 

しんしんと湧きあがる力新らしきキヤベツを内から彈き飛ばすも

夕されば光こまかにふりこぼす人参の髯もあはれなりけり

れいろうと不盡(ふじ)の高嶺のあらはれて馬鈴薯(じゃがいも)畑の紫の花

地面(じべた)踏めば蕪(かぶら)みどりの葉をみだすいつくしきかもわが足の上

桟橋にどかりと一本大鮪放り出されてありたり日暮

キャベツ畑の写真

 

「心霊が蘇り、新生是より創まつた」三崎の生活(「漁村の秋」から)

『雲母集』余言には次のように記されています。

 

この約九ヶ月間の田園生活は、極めて短日月であつたが、私に取つては私の一生涯中最も重要なる一轉機(てんき)を劃(かく)したものだと自信する。初めて心霊が蘇り、新生是より創まつたのである。

 

人生の転機、「心霊の蘇り」を感じさせる一つの文章を、随筆「漁村の秋」に見ることができます。

秋の始まりの、寂しくも美しい夜の三崎の姿に白秋が涙を流す場面です。

この随筆に出てくる通り矢は、白秋が最初に居を構えた向ヶ崎の住居の正面にありました。

 

その頃、私の隣の漁師などは夜の二時頃から小舟を水に引き下ろして急いで漕いで出て行きました。その日ぐらしの貧しい漁師風情では夜の目も眠られないかと思ふと、私も起きて凝っと硝子障子を透かして見たり為(し)ました。すると暗い海面の上に、通り矢の小島がまだその上にも黒く、その黒い島の上には同じく黒い松の木が一本劃然(くっきり)と見えて、よく観るとそれが秋の夜風に揺れてゐました。さうした時にはきつと細い二十日ばかりの月がその隙間から覗いてゐます。湿(しめ)やかな雨をふくむだ小さな雲も薄青い金色に光つて消えてゆきます。さうして、その下から幅の細い金いろの光が一線(ひとすじ)、きらきらと海面に脚を引いてゐるのです。その金色の波の上を小舟はその水脈を揺れ立たし乍(なが)ら沖の方へと漕ぎつめてゆくのでした。しんしんとした舟の行衛(ゆくえ)です。難有(ありがた)い真夜中の啓示、それは目の醒めた者のみが窺ひ得るだけです。私はその時、心の底から忝(かたじ)けないと思ひました。虔(つつ)ましい懺悔の心も湧いて出ました。さうしてつくづくと自分の事をも人の事をも考へて見ました。世の中の事、人としての生き方、慈悲心、さういふ正しい真純な願や祈りの言葉が、ひとりでに流れ出て来ました。とめどもなく涙がこぼれるのでした。

遠い沖の方では何を釣るのか出そろつた漁船の漁火が一列に、不知火のやうにチララチララ為(し)てゐます。それがまた溜(たま)らず心細くさせました。

さうした夜中にも、虫の音(ね)ばかりは、島と陸(おか)とでしつきりなしに鳴きそゝつて居りました。一心にです。

 

往時の通り矢のはな(年代不詳)の写真(東北芸術工科大学東北文化研究センター所蔵)

写真:往時の通り矢のはな(年代不詳)(東北芸術工科大学東北文化研究センター所蔵)

現在の通り矢の写真

写真:現在の通り矢(通り矢のはなは、写真左端付近)

白秋まつり碑前祭

「白秋は三浦の宝」と話す山口勝さんの写真

写真:「白秋は三浦の宝」と話す「サポーターみうら」代表山口勝さん

白秋と三崎との関わりを追慕する第37回碑前祭が、城ヶ島の白秋碑前で平成26年7月10日(木曜日)に開催され、地元城ヶ島保育園園児やコーラスグループが白秋のゆかりの歌を披露します。

チャッキラコ・三崎昭和館運営ボランティア団体「サポーターみうら」代表山口勝さんによると、白秋の詩碑・歌碑は全国で60以上あるものの、白秋が生前建碑を許可し、自ら筆を取ったのは三浦市にある2つの碑だけです。

一つは、白秋が一時滞在していた見桃寺の歌碑、そしてもう一つが、「城ヶ島の雨」の城ヶ島詩碑です。

建碑を好まなかったと言われる白秋が認めた碑のすべてが三浦市内にあるということは、白秋にとって三浦がかけがえのない土地だったことを示しています。また、そのことは三浦市にとって誇るべき「宝」といえるでしょう。

参考

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