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総合案内 > 市政情報 > 三浦ファンが語る!「三浦自慢」 > 鎌倉幕府・侍所の初代別当~和田義盛


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更新日:2014年4月17日

鎌倉幕府・侍所の初代別当~和田義盛

三浦市に拠点を持ち、鎌倉幕府で大出世をした人物、和田義盛をご存知ですか?木像和田義盛坐像

義盛(1147年~1213年)は、三浦半島に勢力を持ち、源頼朝の鎌倉幕府創建に貢献、初期鎌倉幕府の有力な御家人であった三浦一族の1人です。

当時は、所領の地名を姓にする風習があり、義盛の所領が現在の初声町和田にあったことから和田の姓を名乗ったといわれています。

弓の名手であり、武勇において御家人の尊敬を受ける人物であったと伝えられている義盛は、頼朝から幕府の重要機関である侍所の初代別当(トップの職)に任じられました。侍所の主な役割は「警備・御家人の統率・罪人の収監など」で、概ね現在の防衛省と警察庁を兼ねた機関にあたります。侍所初代別当への抜擢は、平氏追討の戦いに敗れた失意の頼朝を、義盛が励まし、士気を上げた時に約束されたといわれています。

義盛は、平氏との最後の合戦である壇ノ浦の戦いや奥州藤原氏との奥州合戦などにも参加し、鎌倉幕府創建に貢献。鎌倉幕府創建後も、頼朝・頼家・実朝の三代に仕え、有力な家臣の一人として鎌倉幕府を支えました。三代実朝の頃には、孫や甥にまで官位を与えられるなど、幕府内でも大きな勢力を誇りました。

頼朝との約束

平氏との戦いに敗れ、散り散りになった頼朝と源氏方の勢力は、千葉県安房郡鋸南町竜島付近で頼朝と合流しました。

その時、義盛は、「平氏を討ち、私を日本国の侍別当にしていただきたい。」と頼朝に願い出て、それに対し頼朝は、「約束する。」と応じました。

義盛の侍所の初代別当就任は、この約束が果たされたものです。

敗戦直後の絶望的な状況の中で交わされた、頼朝と義盛の場違いな応酬に、笑声もあがり、士気は高揚したといわれており、義盛のリーダーとしての資質が伺えます。

和田義盛ゆかりの地

義盛の菩提寺~来福寺-南下浦町上宮田来福寺

来福寺は義盛の菩提寺で、当初鎌倉の名越(なごえ)に建てられました。その後、義盛ゆかりの地である初声町和田に場所を移しましたが、台風によりたびたび被害を受け、現在の南下浦町上宮田の地に移したと、お寺の由緒記に書かれています。

本堂には、鎌倉武士の風格を漂わす義盛の木像がまつられています。

 

 

 

 

義盛を祭神(さいじん)1としてまつる~神明白旗神社-初声町和田-神明白旗神社

義盛の死後、和田の村人達は、自分達に尽くしてくれた義盛の恩に報いるため白旗神社を建て、義盛を祭神(さいじん)としてまつったといわれています。

なお、大正7年に矢作の神明社と合祀(ごうし)2され、現在は神明白旗神社と呼ばれています。

 

1祭神(さいじん):神社にまつられる神

2合祀(ごうし):他の神社にまつってあった神を、他の神社に移して一緒にまつること

義盛が信仰した薬師三尊(やくしさんぞん)3をまつる~天養院-初声町和田-天養院

本堂に向かって左側の厨子(ずし)4の中に、薬師三尊(やくしさんぞん)がまつられています。

この薬師三尊(やくしさんぞん)は、天養院の近くにあった安楽寺の本尊(ほんぞん)5で、義盛が信仰していた仏様です。

 

3薬師三尊(やくしさんぞん):薬師如来(やくしにょらい)と、その脇侍(きょうじ)6の日光菩薩・月光菩薩の総称

4厨子(ずし):仏像等を安置するための、正面に両開きの扉がついた仏具

5本尊(ほんぞん):寺院などで、礼拝の対象として安置される、最も主要な仏・菩薩像

6脇侍(きょうじ):中尊(3では薬師如来)の左右、あるいは前後に侍するもの

和田義盛旧里碑(きゅうりひ)-初声町和田-和田義盛旧里碑

天王社の境内に、角柱型をした碑があります。この碑には、「和田義盛旧里碑男爵三浦英太郎書」、裏には「大正10年3月建立」と書かれています。

三浦英太郎さんは、三浦一族の子孫にあたるといわれる人です。

 

 

 

 

 

 

史跡めぐりなどで神社仏閣への来訪を希望される方は、教育部文化スポーツ課まで事前にご連絡ください。

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部署名:政策部政策課 

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