三浦の歴史
人が暮らし始める以前の三浦
三浦市には何万年も前の環境を知ることができる地層が多く存在しています。
特に、諸磯の隆起海岸、漣痕(波調層)、海外町のスランプ構造は海の中で堆積した地層が後の地震で隆起したものと考えらえ、当時の環境をこの目で知ることができる貴重な資料として国、県の指定を受けています。
旧石器時代~古墳時代(約4万年前~)
三浦市には200か所を超える遺跡があります。それらは遥か昔から三浦市で生活が営まれていたことを示しています。
大きな集落で人々が生活を営んでいたことが確認できる集落跡や、海の浸食により作られた洞窟の中で漁撈や占いを行い、最終的にはお墓として使用していたことなどを確認できる海蝕洞穴などがあり、国や県の史跡に指定されている貴重な遺跡も存在します。
旧石器時代
水谷戸遺跡など2万年前後にさかのぼると考えられる遺跡が確認されています。
縄文時代
大浦山遺跡、三戸遺跡、鵜ヶ島台遺跡、諸磯遺跡など標準遺跡※となっている遺跡が多く存在します。
※考古学において特定の土器や石器、遺構の型式・様式を決定づける基準となった遺跡のこと
弥生時代
大規模な集落であったと考えられる赤坂遺跡は、巨大な遺構が発見されていることから多くの富を築いていたと考えられます。
また、遺物の量が多く、呪術具を中心に貴重な遺物が多くみられることから、物流の中心となっていたり、様々な動きの拠点となっていたことが分かります。
- 海蝕洞穴
三浦半島に40か所ほど確認されており、そのうちの約30か所ほどが三浦市に存在しています。
その中でも毘沙門洞穴(県指定史跡)や大浦山洞穴(市指定考古資料出土)を中心に、骨角製品、貝製品、卜骨が多く出土しており、狩りなどの拠点となっていたことが分かります。
また、人骨も多く出土しており、お墓としての役割を果たしていた側面も見られます。
古墳時代
三浦市にも有力者のものと考えられる古墳が作られていました。
- 向ヶ崎古墳
人物・馬・円筒埴輪が見つかっており、円筒埴輪の配置から円墳と考えられています。
- 白山神社裏横穴古墳
切妻造形の入口をしており、内部も梁や柱を浮き彫りにし、住居のような様相を呈しています。
飛鳥時代~平安時代(6世紀末~)
『御浦』がはじめて資料に登場したのは、日本書紀の「持統天皇六年の頃」(692年)と言われています。その後、「相模国封戸租交易帳」や「和名類聚抄」には『御崎(美佐木)』や『氷蛭(比々留)※』の地名が載っています。
※現在の金田、蛭田を中心とした地域と考えられています。
天平年間(729~748年)には僧行基が三浦を訪れ、城ヶ島に三浦最古とされる寺院「神宮寺」を建立したとされています。神宮寺は現在残っていませんが、本尊の薬師如来立像は見桃寺に祀られています。
中世(11世紀~)
三浦氏は1063年に衣笠に城を構え「三浦姓」となってから、1516年に北条早雲によって落城、滅ぶまで約450年この地を治めました。
- 和田義盛
鎌倉幕府が開かれたのち、源頼朝によって左衛門尉、侍所別当に任ぜられ、幕府の重臣としての地位を将軍3代にわたり確立しました。
しかし、1213年に北条氏を打倒するという陰謀に関わっていたとされ、子と甥が追捕、自らこれまでの勲功を将軍に申し立て、子は赦されたものの、当時実権を握っていたとされる北条義時により、首謀とされた甥の処遇については不法な処置を受け、北条氏打倒へと向かっていきます。
ところが、蜂起前日、共に戦うとしていた三浦義村が北条義時側へ離反し、一昼夜にわたり戦ったものの、和田氏は滅亡しました。
- 三浦義村
1200年、父三浦義澄が死去し、三浦一族の惣領となりました。1205年の北条時政の後妻牧の方の陰謀発覚の際や1213年の和田合戦の際など北条義時に協力し、行動を共にしており、それにより三浦氏の地位を高めていきました。
- 三浦義同(道寸)・義意(荒次郎)
三浦義同は、三浦時高の養子として育てられたものの、実子が生まれたことにより廃嫡、追放されました。その後加勢合力を得て新井城を攻め、時高を滅ぼしました。
1509年、北条早雲は武蔵国へ進攻をはじめ、三浦義同・義意父子は早雲との攻防に参陣します。
1513年には相模国へ進出した早雲により進攻を受けます。天然の要害ともいわれた新井城へ籠城しましたが、それまでの諸所での早雲との攻防により、多くの将兵を失っており、3年の戦いの末落城しました。
近世(16世紀末~)
北条氏が滅び、三浦市は徳川家が支配する幕府天領となりました。三浦市が江戸湾の口に位置することから守りとして船舶航行の取締りに海関が設けられました。
また、日本近海に欧米諸国の船が出没するようになると、各地から雄藩が上宮田の海防陣屋に派遣され、警備にあたりました。
- 向井一族
家康が関東を領すると水軍の拠点を三崎に定め、向井政綱をはじめとした船手奉行を配置しました。
家康が天下統一を果たすと水軍の本拠地としての役割はなくなりますが、江戸と上方を結ぶ船の船改めとして、1624年、政綱の子、向井忠勝が三崎奉行となりました。その後も1632年に走水奉行を兼任、1633年には家光の命を受け大型軍船を完成させるなど重要な役割を担いました。
- 海防陣屋
異国船が度々渡来するようになると朝廷は幕府に対し海防の強化を命じました。その結果、1847年に江戸湾口の守りとして上宮田に軍政の本拠地を置き、彦根藩が警備にあたりました。その後、長州藩、熊本藩、佐倉藩と受け継がれました。
彦根藩が警備に当たった当初は苦しい財政でしたが、長州藩に変わると産業を興すなど様々な点で善政が行われたため、熊本藩と変わるときには留任の願書が出るほどでした。
この陣営には後の木戸孝允や伊藤博文も勤めていたといわれています。
戦争遺跡(近世~近代)
三浦市は江戸湾口の守りの拠点として様々な施設が設置されました。
そのほとんどが戦いの中で活躍することなく役目を終えていますが、今も面影を残している箇所がいくつもあります。
- 三崎砲台(大正7年起工)
- 城ヶ島砲台(大正13年起工)
- 劔ヶ崎砲台(大正13年起工)
- 第十一突撃隊基地(昭和20年起工)
- 高貫機銃陣地 など
参考文献
三浦市史編集委員会. 1984.目でみる三浦市史.第四版.三浦市
上杉孝良/三浦一族研究会.2007.改訂 三浦一族-その興亡の歴史-.初版.横須賀市
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更新日:2026年09月25日