【観光解説板】引橋

更新日:2024年03月13日

横須賀市の衣笠城を中心にして栄えた三浦一族は、三浦義澄の孫泰村が時の執権北条時頼と仲たがいとなり、いわゆる宝治合戦がおこり、一族は滅びましたが、義澄の弟佐原十郎義連の系統が残り、その孫、盛時から八代目の時高が永享十年(一四三八年)新井城を油壺に構築し、本拠を三浦に移しました。
この時高は世継ぎの問題から養子の義同と争い、明応三年(一四九四年)新井城で自殺するに至ったとの説があり、三浦の城主となった義同は当時小田原を拠点とした北条早雲の勢力と対決、平塚市伊勢原市両市にまたがる岡崎城、逗子市小坪の住吉城と各支城で敗退、最期のたのみを新井城に託して守りを固めました。ここ引橋はそのときの大手、つまり外敵防御の第一線であったといわれ、谷間に橋を掛け渡し、敵が攻め寄せたとき、その橋を引いて防いだところから引橋の地名がおきたと伝えられています。

(観光解説板の内容を掲載しています。)

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