【観光解説板】油壺湾

更新日:2024年03月13日

油壺の名のいわれは、永正十三年(一五一六年)新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立て篭った三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、三年間にわたって奮戦しましたが空しくついに全滅し、一族の将三浦道寸義同をはじめその子荒次郎義意は自刃、他の将兵も討死、または油壺湾へ投身したと伝えられそのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったので後世「油壺」といわれるようになりました。
北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のように記しています。
「今も七月十一日には毎年新井の城に雲霧おおいて日の光りも定かならず、丑寅の方と末申の方より雷(いなずま)かがやき出て両方光入乱れ風猛火を吹き上げ光のなかに異形異類の物有りて干戈(かんか)をみたし、虚空に兵馬駆け散り乱れ天地をひびかし戦う有様おそろしきと言うばかりなり云々」

(観光解説板の内容を掲載しています。)

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